K.ロズベルグは北欧出身のドライバーです。
この年は、不幸な出来事が多かった年でもあります。
カナダの英雄G.ビルヌーブが不幸にしてこの世を去り、何かと揉めていた僚友D.ピローニもチャンピオンシップをリードしながらシーズン途中で事故のためいなくなり、しかしフェラーリはコンストラクターズタイトルは取ります。
C.ロイテマンもレースフィールドから去ってしまいました。
さて、フィンランド初のワールドチャンピオンK.ロズベルグですが、現役ドライバーのN.ロズベルグの父です。
親子なのにN.ロズベルグの国籍はフィンランドではありません。不思議ですね。
さて、彼を評する言葉にこのようなものがあったことを記憶しています。
「初めてのサーキットと市街地コースでは滅法速い」
そう、彼は北欧出身に恥じないドライバーだったのです。
ところで、82年のシーズンを語る前に、ここまでフランス人のワールドチャンピオンは一人もいないということを一言添えておきます。
82年のシーズンはフランスにとってフランス人がワールドチャンピオンを獲得する大きなチャンスの年だったのです。
この年、開幕からルノー(フランス)に乗るA.プロスト(フランス人)が連勝します。しかし、ルノーも僚友のR.アルヌー(フランス人)もその後、第10戦までポイントがまったく取れませんでした。
第3戦はN.ラウダ(マクラーレン)が制しますが、同じマクラーレンのJ.ワトソンが中盤は2勝してポイントを稼ぎますが、マクラーレンはシーズンを通して安定した強さを発揮できませんでした。
良かったのはフェラーリのD.ピローニ(フランス人)ですが、彼もシーズン途中でポイントリーダでありながら、事故で戦列を離れます。
シーズンを通して安定してポイントを稼いだのがK.ロズベルグでした。勝てなかったのですが、安定度は抜群でポイントを徐々に蓄えていきました。
そして運命の第13戦スイスGPだったと思います。
ポイントリーダはすでに戦列を離れているD.ピローニで39点、続く2番手は33点のK.ロズベルグ、3番手は30点のJ.ワトソン、そして4番手に25点のA.プロストがいました。
最終ラップ、トップはK.ロズベルグ、2番手はA.プロスト、2台はその順位のままゴールかと思われたが、なんとチェッカーは振られず、1周多くなったのです。
しかし、クレバーなロズベルグはトップを守りきり、自身の初優勝と、ポイントリーダへの浮上を成し遂げたのです。
フランス人初のワールドチャンピオンは消えました。プロストも最終的には届かず、4位に終わりました。
最終順位は
1.K.ロズベルグ 44
2.D.ピローニ 39
2.J.ワトソン 39
4.A.プロスト 34
5.N.ラウダ 30
となりました。
フランスの悲願は、その年も潰えました。
そして翌年もものすごいドラマの末、フランスの悲願は潰えてしまうのです。
フランスのすべての期待を背負ったA.プロストがその期待に応えるのはもう少し先です。
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ちょっと独り言
実は、個人的にK.ロズベルグの印象は薄いんです。
この時代に速かったD.ピローニ、G.ビルヌーブはこの年に共に消えてしまいました。
孝行息子のJ.ビルヌーブはチャンピオンになりますが、エンツォ・フェラーリが最後に愛したドライバーがG.ビルヌーブでした。
私が彼の死を知ったのは、英字新聞JapanTimesの記事でした。
殆ど読めなかったのですが、それだけはわかりました。
F-1の情報に飢えていた私は、少しでも早く情報を知ろうと苦労していた時期でした。
D.ピローニはF−1の事故では死にませんでしたが、パワーボートのレース中に事故死していしまい、最後までスピードを求めていた彼の生き様はすごいものがあったと思う。

