2006年08月19日

W杯 '06 ドイツ大会 アジア予選の記憶

 記憶に新しいドイツ大会のアジア予選のお話を今回はさせていただきます。

 ジーコが監督に就任して日本版黄金の中盤が構成された。しかし、中田、小野、中村、稲本の4人はドイツ大会でピッチ上に一度に揃う事はなかった。

 アジア予選の前にアジアカップを連覇したのはこのチームの強さに大きな期待を持つに十分だった。

 日本はここ4回のアジアカップを3度制覇し、アジアでは強国の地位を築くことができたと思う。

 アジアチャンピオンであることは、コンフェデの出られるということである。
 コンフェデに出た日本はブラジル相手に善戦した。
 さらに期待は強くなった。

 そして、W杯アジア予選で、一次予選は終わってみれば危なげなく最終予選にコマを進めた。

 そして最終予選で日本は初めてあることを達成した。
 それは最後に触れるとします。

 最終予選は、日本の敵はイランだけであろうと思われ、その通りの展開になった。ジーコ監督は5勝1敗を予想として掲げ、その通りになる。
 あの1敗はイランでのアウェーゲームであった。
 北朝鮮との無観客試合などの話題はあったが、イランとのホームゲームに勝つかどうかが実は日本とって歴史的なことだったのだ。

 イランはアリ・ダエイが未だ現役なのも驚くが、確かに強いチームであった。
 だが、日本はホームゲームで勝ち、グループ1位で最終予選を通過した。

 これは、実は日本にとって記録的なことである。
 W杯本大会のアジア出場枠が2つしかなかった時代、日本はどうしても届かなかった。
 アジアの出場枠が増えてから、日本は出場していたのであり、アジアカップを制してもW杯のアジア予選で、アジアの2位以内に入ったことはなかったのである。

 だからこの結果に、私は実に高い評価をしている。

 いつか欧州を越えるために、越えなければならないものをひとつクリアした瞬間だったと思う。

 そしてドイツへと戦いのステージは移っていくのである。

 今回は盛り上がりがないのですが、私自身アジア予選は突破できる確信があって見ていたので、あまり印象の強い記憶がないのです。
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2006年08月05日

W杯 ’02 日韓大会の記憶 後編

 前回は、日本を中心に書きましたので、ワールドカップ日韓大会全体総括で1話書きます。

 予選リーグは、有力チームが次々と脱落する展開となった。

 ヨーロッパチャンピオンのフランスはジダンの怪我で絶不調。ジダンは第3戦にピッチに立つも見せ場なく終わった。

 ポルトガルも予選リーグの最終戦で韓国に引き分け以上で決勝トーナメントに進出できたのに敗れたため終わってしまう。

 更に南米の雄、アルゼンチンもイングランドに敗れてしまってからおかしくなってしまったのか、ナイジェリアと引き分けてしまい、予選リーグで敗退した。

 21世紀最初のW杯は勢力図が様変わりしたかのような決勝トーナメントの顔ぶれになった。

 決勝トーナメントに入ると、韓国は大躍進を続けた。これにはいろいろ言われているが、記録としてアジア史上初のW杯ベスト4。結果としてすごいものである。

 その韓国に敗れたチームはイタリア、スペインであった。ヨーロッパの列強が次々と敗れていくのに、信じられない思いがあったのは事実である。

 韓国側のトーナメントドローを勝ち上がったのはドイツであった。クローゼというスターが誕生した予選リーグだったが、彼は決勝トーナメントに入ってから1点も取れずに終わってしまう。
 得点力が落ちてもドイツは踏ん張り、準決勝を含めて決勝トーナメント3試合全てを1−0で勝って決勝に勝ち上がった。

 日本側のトーナメントは、日本に勝ったトルコが快進撃をしたが、準決勝でブラジルに敗れた。
ブラジルは南米予選で史上最悪とも言われている出来だったにもかかわらずW杯ではついに6連勝して決勝に進んだ。

 そして決勝は4回の優勝回数を誇るブラジルとイタリアと並ぶ3勝のドイツがW杯の舞台でついに初対決となった。
 結果は自力に勝るブラジルが2−0で優勝し21世紀最初のチャンピオンとなった。

 この大会のベストゲームはなんだったか、ブラジルは危なげなく優勝し、韓国のゲームは?が付く部分も多かったし、私の贔屓のドイツもよく勝ち上がったが決していいゲームとは言えない内容が多かった。

 やはり私としては、イングランド−ブラジル戦を挙げたい。ベッカムもいい働きをしたし、イングランドのサッカーは強さを感じさせた。ブラジルの前に敗れたが、1−2のどちらにも見せ場のあるゲームだった。

 日本でベッカムのファンが多いのはよくわかります。

 世界のサッカーは本当に様変わりしたのか、4年後のドイツ大会の結果を見ながら語りたいと思います。

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2006年07月30日

W杯 '02 日韓大会の記憶 前編

 この大会のアジア予選は記憶にありませんので、日本を中心にした話を前編でお送りします。

 日本サッカー協会がベンゲル監督にラブコールを送ったところまで前回書きましたので、その続きから書きましょう。

 ベンゲル監督にラブコールを送った日本であったが、アーセナルに勝てず、ベンゲル監督に紹介されたトルシエ監督が日本代表の監督となった。

 日本はここで画期的な試みを行う。トルシエ監督が受けたこともすごかったのだが、ユース、オリンピック、A代表、すべの監督をトルシエにしたのである。

 個人的にはB代表を持たない日本としては、非常によかたっと思う。同じ戦術で多くの選手を育てることが出来るからである。

 このトルシエジャパンの戦跡は結果としてすごい。ユース代表は、ベスト8止まりだったワールドユースに準優勝してしまう。更にオリンピック代表はブラジルと同じ組になりながら決勝トーナメント進出を果たした。

 A代表では前回失ったアジアチャンピオンの座を奪い返した。

 アジアチャンピオンとして、コンフェデレーションカップにも出場し、なかなかの戦跡を残してワールドカップにたどり着いた。トルシエ監督はW杯の監督に最初からなる契約ではなかったがここまでの戦跡が評価されて、W杯でも指揮をとることになった。

 トルシエ監督といえばフラット3という守備の戦略をとる監督である。日本には合っていたのだと思う。このフラット3はともすれば5バック的になってしまい、守備的になるのかと思われたが意外に機能した。

 とはいえ、中盤がダブルボランチなので、ボランチの攻撃参加がないと攻撃のオプションが足りなくなる部分があったが、稲本、戸田のボランチはなかなかいい感じだった。
 攻撃の核は中田英で、これは不動のポジションであった。
 フラット3が、森岡、中田、松田で機能していたので、日本の実力は意外と安定していた。かくして、日本はW杯を迎えた。
 得点力不足が言われるのはいつものことではあったが、それでもこのチームは期待がもてた。

さてW杯の本番であるが、発表された日本代表に中村俊輔の名前がなかったのはご存知のとおりである。

 個人的には、この日本代表は実によく考えられていると感じた。
 それは、マルチポジション性を取っていた日本代表は、多くの選手が複数のポジションを受け持つことができたことに起因する。人ではなくポジションにそこを担当できる人間を埋め込んでいくと、実にバランスのよい配置になっていたからだ。

 これは、常にベストメンバーが組めるとは限らないことまで考えたトルシエ監督のリスクマネジメントだったのだと思う。

 そして本大会の予選リーグ日本はシード国としてH組みに配置された。緒戦のベルギー戦では私個人もチケットが当選してスタジアムで観戦した。
 結局引き分けに終わったが2ゴールには熱狂した。稲本のゴールも鮮やかで2.5列目から最前線まで飛び出した状況判断には驚いた。

 もちろん鈴木のゴールもいやな雰囲気を断ち切るには十分だった。

 結局私は、日本のW杯初勝利には立ち会えなかったが、初勝ち点には立ち会えた。それだけでも感動できた。

 さて、日本は私のいない(関係ないですが)ロシア戦、チュニジア戦に勝ち、堂々の1位でグループリーグを突破した。

 世代を超えて1つの戦術で育てた選手達がここに集結して、結果を出したのである。
 決勝トーナメントではトルコには敗れたが、同じ戦術で多くの人間を4年にわたって育てていく戦略はすばらしい成果を挙げた。

 こうして日本の4年が終わった。

 個人的には、B代表を持つことをお勧めしたい。
 同じ戦略で多くの選手を育てることは効果があるということを知ってしまったのだから。

 そして日本の代表監督になったのはジーコだった。
 思えば黄金中盤の4人のうち二人目の監督である。今までの日本代表監督の内、もっともカリスマ性が高い監督であった。そして欧州勢の本気が見られる欧州開催のW杯ドイツ大会への戦いは始まったのであった。
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2006年07月23日

W杯 '98 フランス大会の記憶

 日本が初出場を果たしたW杯ですので私にも思い入れのある大会です。
 日本のメンバーでカズと北沢と市川が最後に落選しました。

 さて、予選リーグはどうしても日本中心に見ていましたが、他のゲームも見られる限りは見ていました。
 予選リーグからフランスは絶好調でした。しかし、イエローカードをもらったジダンが決勝トーナメントを前にイエローカードを精算しようとした結果、彼はレッドカードをもらってしまった。フランスはここで大きな誤算が出ました。

 ブラジルリーグも予選は好調と思われました。しかし、予選リーグの最終戦でノルウェーに敗れてしまいブラジルも少しどうかなと思わせるものでした。

 私のひいきのドイツも予選リーグを突破しました。ユーゴと共に2勝1分けでしたが、得失点差で1位で通過しました。

 さて日本は、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカと同じ組になりました。緒戦のアルゼンチン戦で日本は本当に検討しましたが、0−1で惜敗しました。続く、クロアチアとの死闘にも0−1で惜敗し、日本の決勝トーナメント進出の夢は破れました。そして、ジャマイカ戦は共に2敗同士の戦いとなり、日本はジャマイカに1−2で敗れて日本のW杯本選の初出場は終わりました。しかし日本のサポータがフェアプレ−賞を受賞するなど、日本のサッカーは世界に足跡を残したのです。

 結局、アルゼンチンとクロアチアがこの組を抜けました。

 この予選の最高のカードはスペイン対ナイジェリアでした。
 点の取り合いとなったこのゲームに勝利したのはアフリカ勢として初優勝さえも囁かれていたナイジェリアが3−2でスペインを振り切ってしまいました。
 この組にはW杯史上初めて得点をマークすることが期待されるフリーキックを蹴るGKチラベルト率いるパラグアイがいました。
 ナイジェリアは2連勝を飾り、パラグアイはスペインとの死闘をスコアレスドローに持ち込むことに成功しました。ナイジェリアの決勝トーナメント進出は既に決まっていて、そのナイジェリアにパラグアイが勝って2位で決勝トーナメントに進出し、シード国として唯一、スペインは予選落ちとなりました。

 しかし、自力での決勝進出がなくても第3戦のスペインの気迫は見事でした。6−1で勝利しましたが時遅く、パラグアイが2位になりました。

 
 さて決勝トーナメントに入ると、ジダンのいないフランスがパラグアイとの死闘を演じます。結局スコアレスのまま延長戦になり、リベロのブランの勝負勘と勝負強さで1点をチラベルトからもぎ取ってフランスは何とか勝ちあがりました。
 ブラジルは圧勝、しかしナイジェリアは1−4でデンマークに敗れてしまいました。
 ブラジルに勝利したノルウェーもイタリアに及ばず破れ、ベスト8の4つのゲームは
 イタリア−フランス
 ブラジル−デンマーク
 ドイツ−クロアチア
 オランダ−アルゼンチン
 となりました。
 ここでの最高の死闘はイタリア−フランスで、延長でも決着がつかずPK戦になった。
 ここに勝利したのはフランスで、フランスの最大の山場はここであった。

 ドイツがクロアチアに敗れたのは個人的には残念であった。

 オランダがアルゼンチン勝利した事で、準決勝は
 フランス−クロアチア
 ブラジル−オランダ
 となりました。

 オランダとブラジルは死闘となった。PK戦に持ち込まれたこのゲームでブラジルのGKタファレルが全て方向を読みきる離れ業で、ブラジルを決勝に導いた。
 一方のフランスは天敵ドイツがクロアチアに敗れたことで、クロアチアに勝利して決勝に進んだ。

 そして決勝、ロナウドの体調が悪かったのは後で聞いた話であったが、ジダンの大活躍でフランスは史上7番目のW杯優勝国となった。
 これで各国の優勝回数は、南米はブラジル4、アルゼンチン2、ウルグアイ2で8勝、欧州はイタリア3、ドイツ3、イングランド1、フランス1で8勝となり、南米−欧州の8勝ずつ分け合う形になった。

 日本が初めて出場したW杯。ドーハの悲劇から6年後、日本と同じように予選の最後の1分で涙を呑んだフランスが優勝を遂げたのはちょっと因縁めいたものを感じてしまうのは私だけでしょうか。

 その日本は地元でのW杯開催を控え、名将ベンゲル監督にラブコールを送っていた。悲願の初勝ち点、初勝利、そして決勝トーナメント進出を狙う日本の4年間はこのときにもう始まっていた。
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2006年07月15日

W杯 '98 フランス大会 アジア予選の記憶

W杯もフランス大会まで来ました。

アジア予選の前から記憶をたどりましょう。

 ドーハの悲劇の後、日本代表の監督になったのは、ブラジルの黄金の中盤の一角だったファルカンだった。
 しかし、彼は結果を残せず、W杯を目指すことはできなかった。その後を受けたのは当時の横浜フリューゲルスの監督だった加茂監督だった。

 彼はゾーンプレスという戦略を用いたが、代表ではサイド攻撃が主眼だったと思う。加茂ジャパンはダイナスティカップに勝ったが、アジアカップではベスト8でクウェートに敗れてベスト8に終わった。しかし、日本サッカー協会は加茂ジャパンでW杯予選を戦うことを決めた。

 一次予選を勝ち抜いて最終予選は今までの中立国での一発勝負からホーム&アウェーの方式に変更になったこと。W杯参加チーム数が32ヶ国に拡大され、アジア枠は3.5になっていた。

 初戦のウズベキスタンとのホームゲームに4−2で勝ち、勢いに乗るかと思われた日本だったがUAEに引き分け、韓国とのホームゲームに敗れてしまう。そしてカザフスタンのとのアウェーゲームにリードしながら引き分けてしまう危機に立たされた。その中で加茂監督が更迭された。
 後を受けた岡田監督だったが、ウズベキスタンにもUAEにも勝てず、日本の苦闘は続いた。

 しかし、韓国戦で日本のチームは何かが吹っ切れたようだった。
 韓国戦、カザフスタン戦に連勝して日本はアジア第3代表決定戦に進んだ。

 そしてイランとの一戦。日本は前半リードしながら、後半に逆転を許す。しかし、執念で同点に追いつき、延長戦に突入した。
 そして野人岡野は再三に渡ってイランのディフェンスラインの裏へと突破する。しかし、決まらない。
 個人的には当時ニュースステーションのキャスターだった小宮悦子さんの絶叫が忘れられない。
 しかし、ついに歓喜のときが訪れる。中田のミドルシュートをキーパーがはじく、そこへ詰めた岡野がゴールにボールを蹴り込んで、ゴールデンゴール方式の延長が終了した。
 世界中のW杯予選で世界で初めてゴールデンゴールを決めたのは岡野である。彼は歴史に名を残した。

 ジョホールバルの歓喜。後にこう呼ばれた日本のサッカー史に輝く記録である。

 これで日本は史上初めてW杯本大会出場を金で買った国にならずに済んだ事も付け加えておこう。

 しかし、日本が叩き続けた世界への扉が開いた瞬間であったことは間違いない。

 こうして日本はW杯出場32ヶ国の1つを占めた。
 それは更なる高い壁への挑戦の幕開けだった。(そう思ったんですよね)
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2006年07月11日

W杯 '94 アメリカ大会の記憶

 アメリカ大会の予選が終わったので、本大会について話します。

 アメリカ大会の予選リーグの主役はナイジェリアであった。
 アフリカ勢の台頭はカメルーンからナイジェリアに引き継がれ、W杯を制してもおかしくないのではというぐらい強い波になりつつあった。
 予選でもその強さは発揮され1位でグループリーグを突破した。

この予選リーグで不幸なできことが起きた。アルゼンチンのマラドーナがドーピングに引っかかり、2試合でピッチを去ることになったことである。マラドーナ不在のアルゼンチンは、予選リーグを突破できたもののチームの中心を失い、決勝トーナメント1回戦で姿を消すことになる。

 予選で起きたもうひとつ事件は4チームが1勝1敗1分で並んだグループがあったことだ。イタリアはこの死の組で3位としてやっとの思いで、決勝トーナメントに進む。

 ディフェンディングチャンピオンのドイツも予選では勢いを見せたが、決勝トーナメントに入りベスト8で涙を呑むことになる。

 ブラジルも80年代を支えたスーパースター軍団から様変わりしていたが、異彩を放つわがまま大王ロマーリオを中心としたチーム構成で、ベベッドが彼の引き立て役に徹して2勝1分けで決勝トーナメントに進んだ。

 イタリアを引っ張ったのはR.バッジョである。ファンタジスタと称される彼は、大会中怪我と戦いながらもイタリアを勝ち進ませる。ナイジェリアを延長の末破り、後の試合も1点差で勝ちきるイタリアの勝ちパターンで勝ちあがり続け決勝へと駒を進めた。

 そのイタリアの相手となったのはブラジルであったが、ブラジルはベスト8でオランダとの激戦を3−2で制したが、得点は多いものではなく、ブラジルらしくない勝ち上がり方(決勝トーナメントをすべて1点差)で勝ちあがった。

 W杯史上、初めてとなった3回優勝国同士の決勝は、死闘の末スコアレスでPK戦となった。得点無き決勝もW杯史上初めてである。
 PK戦を制したのはブラジルで、4勝目をあげた。ペレのいないチームが始めてW杯を手にしたのである。

 しかし、ブラジルらしさの無いチームは、今ひとつブラジル国内での評判はよくなかったようだ。スーパースターの時代から組織の時代へとサッカーは変貌を遂げたのだろうか。
 だがこの大会を盛り上げたのはバッジョとロマーリオ、二人のスーパースターだった。

 そして、新世代のスーパースターたちの息吹はすぐそこまで来ていた。(今にして思えばなんだけど)

 余談であるが、このアメリカの地で2年後日本のオリンピック代表チームがブラジルを破りマイアミの奇跡と呼ばれる。日本が叩き続けた世界への扉はほんの少し開きつつあった。(と感じていたと言うことですけどね)
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2006年07月10日

W杯 '94 アメリカ大会 アジア予選の記憶

 イタリア大会の次は、アメリカ大会です。この大会はアジア予選から話します。

 少し予選の前から話しますと、日本初の外国人監督が就任したのは少し前のことです。オフト監督は日本のナショナルチーム史上初の外国人監督となりました。
 彼は基本的な事を日本にたたき込んでいきました。最も有名なのがアイコンタクトという奴です。
 そしてその成果は実を結び始めます。東アジア選手権(ダイナスティカップ)で日本は海外カップ戦で初めてタイトルを取ります。そして日本で行われたアジアカップで、今まで勝つことが出来なかったアジアの強豪国を退けてアジアチャンピオンの座に初めてつきます。そしてアジアチャンピオンとしてW杯予選を迎えました。

 日本は1次予選で、タイ、UAEと同じ組になり、厳しい組に入っていた。しかし、タイに勝ち、UAEにも日本では勝ち切り、UAEとのアウェー戦に引き分けてアジア最終予選に進んだ。終わってみれば順当と言える感じではあった。

 そして最終予選、記憶によると第1戦のサウジアラビアと引き分け、第2戦のイランに敗北し、追い込まれてしまった。しかし、このときイラン戦で見せた中山のゴールが日本の魂に火を付けていたのかもしれない。
 残りは3試合。第3戦は北朝鮮で、最終予選で初勝利を手にした日本は最大の山場である韓国戦を迎える。
 しかし、カズのゴールで日本は韓国に勝利し、最終戦を残して第2戦終了時点の最下位から首位に浮上した。

 そして最終のイラク戦。日本はリードをしながら残り時間は後僅か。日本のW杯初出場はもう目の前だった。ロスタイム、残り5秒位だったろうか。イランの運命のショートコーナー、松永は飛びつけず、運命のボールはゴールに吸い込まれた。

 後にドーハの悲劇と呼ばれたこの1戦で、オフト監督が「試合が5秒長かった」の名言を残したは有名な事実である。

 2002年のW杯誘致を目指す日本サッカー協会の青写真、アメリカで初出場、初勝ち点、フランスで初勝利、2002年自国開催で決勝トーナメント進出、2006年でベスト8は、この時点で修正を余儀なくされた。もしフランス大会に自力で出場できなければ、日本はW杯史上初めて金で出場を買った国になりかねない危機を迎えた。

 そして日本と同じ目にあったのがフランスであった。彼らも予選の最終戦の終了間際でまさかの1ゴールを奪われW杯出場を逃してしまった。

 そして失意の中からJリーグはスタートした。海外のビッグネームを集めたJリーグであったが、選手として峠を過ぎたビッグネームが集まった為、海外からは年金リーグと言われていたとは当時の私は知るよしもなかった。

 しかし、このときから日本サッカーの世界へ向けた巻き返しが始まろうとしていた。(と、今にすれば思うのですが・・・)
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2006年07月09日

W杯 '90 イタリア大会の記憶

 メキシコ大会の次はイタリア大会です。この大会に予選の思い出がありませんので、本大会にいきなり行っちゃいます。

 この大会の予選の主役はカメルーンだった。W杯のオープニングゲームで前回チャンピオンのアルゼンチンを破る大金星で脚光を浴び、そのまま予選リーグを1位で勝ち抜いてしまった。敗れたアルゼンチンは予選リーグを3位でやっと思いで勝ち上がった。
 一方地元イタリアは絶好調。予選リーグ3試合を3連勝で勝ち上がった。スキラッチ(日本にも来た)が大会を通して好調であり、彼は得点王になる。
 ブラジルも予選リーグはいつものように3戦全勝で突破。この大会もどこがブラジルを止めるのかという感じだった。

 決勝トーナメントに入ると、予選リーグをやっとで勝ち上がったアルゼンチンと予選を3連勝で勝ち上がったブラジルがいきなり1回戦で対戦。大方の予想を裏切ったのはマラドーナの1本のパスで、このパスを起点にアルゼンチンはこの試合唯一の得点を挙げ、そのまま逃げ切ってしまった。
 イタリアはウルグアイを一蹴。かくしてこの時点で南米勢はアルゼンチンだけになってしまった。そして1回戦のもう一つの好カード、74年大会の決勝の再現である西ドイツVSオランダは西ドイツが2−1でオランダを振り切った。
 更に予選で旋風を巻き起こしたカメルーンはコロンビアを破って1回戦を突破した。
 ベスト8になると、アルゼンチンは青息吐息のPK勝ち。イタリアは勝って予選から5連勝。この2チームは次の準決勝で当たることになる。西ドイツは勝ったがイングランドはカメルーンとの延長戦の末勝ち上がった。
 準決勝は妙な記録を残すことになった。準決勝が2試合ともPK戦になったことである。
 イタリアは5連勝でここまで来たが、ここでPK戦の末、アルゼンチンに決勝の切符を奪われた。もう一つのカードは66年大会の決勝の再現となった西ドイツVSイングランドであったが、PK戦の末、西ドイツが決勝に駒を進めた。
 開幕戦に誰も敗れると予想しなかったアルゼンチンが、強さを感じさせないまま、記録上2勝1敗3分けで、決勝まで駒を進め、2大会連続で同じ決勝のカードとなった。
 しかし、ゲルマンスピリッツは前大会の雪辱を晴らし、W杯2勝同士の対決を制して3カ国目の3勝国となった。(3勝した国は、ジュール・リメ杯を持つ権利がある。今は違うかも知れないけど)
 かくしてW杯はブラジル、イタリア、西ドイツが3勝、アルゼンチン、ウルグアイが2勝、イングランドが1勝となり、南米と欧州が7勝ずつ分けることになった。
 この大会で西ドイツの監督を務めたベッケンバウアーは、選手、監督双方でW杯優勝した2人目の人間となった。

・・・そのドイツで今W杯をやっています。ドイツの優勝はなくなったが最後まで目を離せない私です。

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2006年07月08日

W杯 '86 メキシコ大会の記憶

 メキシコ大会の予選で1回書いてしまったので、今回は本大会です。
 後にマラドーナの大会と呼ばれた大会です。

 予選リーグで大躍進したのはデンマークでした。優勝候補は上から黄金の中盤第2章のブラジル、次いで天才マラドーナ率いるアルゼンチン、そしてウルグアイだったと思います。対する欧州勢の筆頭はヨーロッパチャンピオンのフランスでした。

 その予選リーグでウルグアイを圧倒して優勝候補にまで上がったのはデンマークだった。
エルケーア、ラウドルップ、オルセンなどを中心にウルグアイにも、ドイツにも勝って予選リーグを勝ち上がった。

 一方厳しい予選となったのはイングランド。当時、フーリガンのヨーロッパチャンピオンズリーグでの暴動で、イングランドのクラブチームは国際試合が禁止されていた。そして予選リーグ敗退かと思われたイングランドを救ったのはリネカーだった。(Jリーグにも来たなあ。殆ど試合に出てないけど)。彼のハットトリックがイングランドを決勝トーナメントに導いた。

 そして、決勝トーナメントに入ると、将軍プラティニ率いるヨーロッパチャンピオンのフランスが優勝候補筆頭のブラジルとベスト8で早すぎる激突。死闘となったこのゲームは、延長の末PK戦となった。そしてフランスは傷つきながらも準決勝に駒を進めた。

 更に話題を集めたのは、当時戦争中(フォークランド紛争中)だったアルゼンチンとイングランドのゲームだった。この試合のマラドーナの2ゴールは2つとも伝説になった。一つは5人抜き、1つは神の手である。しかし、ここで敗退したイングランドの1点を取ったのはリネカー。この1点が彼をW杯の得点王に押し上げたのはジョンブルの意地というものか。

 そして、アルゼンチンは決勝に勝ち上がる。傷ついたフランスは天敵西ドイツの前の屈し、決勝はアルゼンチンVS西ドイツとなった。

 試合は自力に勝るアルゼンチンが2点差を付け、もう決まったかに見えた。しかしそこからのドイツの魂の反撃は見事で、ついに同点に追いついた。しかし決勝点をもぎ取ったのはアルゼンチン。アルゼンチンは78年地元開催以来、2度目のW杯優勝となった。
 マラドーナの大会と呼ばれる86年のメキシコ大会であった。

 個人的には決勝の西ドイツの猛反撃に鳥肌が立ったのが一番の思い出になった大会でした。

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2006年07月07日

W杯 '86 メキシコ大会 アジア予選の記憶

スペイン大会の次は86年のメキシコ大会です。

この大会の前にメキシコで大地震が起きてW杯の開催そのものも危ぶまれましたが、開催されました。
 そしてメキシコは2度目のW杯。全く同じ競技場でW杯の決勝が2度行われたのは多分メキシコだけでしょう。

 本大会の前に、このアジア予選に思い出がありますのでそこから書きます。

 日本でサッカーは当時マイナーな競技でした。プロもありませんでした。その日本がW杯予選を勝ち上がっていきました。いまでこそ勝てるようになった北朝鮮と予選リーグで同じ組になり国立競技場で1−0で勝ち、アウェーゲームではGK松井を中心に20本以上のシュートを浴びながらドローに持ち込み勝ち上がりました。(日本のシュートは記憶では2本)
 更に勝ち上がった日本は香港を下してアジアのベスト4に進出しました。
 相手は韓国、ホーム&アウェーの第1戦は日本の国立競技場でした。
 ここで伝説のFKが生まれます。蹴ったのは木村和司選手でした。見ていて鳥肌が立ったのを覚えています。
 ラモスが家族から電話を貰って、今週のベストゴールは地球の裏側だったと言われたという話を何かで読みました。ブラジルからそう言う声が挙がったほどの伝説のFKでした。

 しかし、結果は1−2で惜敗。続くアウェーゲームにも敗れ、日本はW杯に行けませんでした。
 今ならアジア枠は4つですが、当時は2つ。厳しい予選でした。韓国はこの時点でプロリーグを持っていましたが日本にはプロリーグもプロ選手もいませんでした。

 しかし、マイナーなアマチュア競技だったサッカーが国立競技場をフルハウスにしたのは日本サッカーに変革をもたらしました。選手のプロ化が認められることになり、木村和司は日本で育ったプロ第一号になりました。
 釜本、杉山以来のスターかもしれません。

 しかし、当時日本人でヨーロッパ(西ドイツ)で活躍するプロ選手はいました。奥寺です。彼に尾崎が続きました。奥寺は当時サイドバックでしたが、元々はオフェンスの選手としてドイツに渡りました。尾崎もバリバリのFWです。現在の日本のFWがヨーロッパに行って点が取れないのをみると、何かが変わってしまったのかもしれません。

 日本のFIFAランクは18位。今は昔の思い出です。
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W杯 '82 スペイン大会の記憶

何となく書き残しておきたくなったので、始めました。
感動したものが薄れていく前にやろうと思ったのと、まじめに長く見ているので結構、語れるなあと思ったのが始まりです。

テーマをまずはW杯にして書いてみたいと思います。



サッカーのW杯を記憶を思い起こしつつ書いてみます。
 サッカーにW杯があると知ったのは82年頃だったかなあ。NHKでTV中継をやっているのを見て見るようになったのが始まりですね。その大会はスペイン大会でした。
 
 その大会に出ていたスター選手は、私の記憶ではこんな所です。
イタリア:ロッシ(得点王)
西ドイツ:ルンメニゲ、リトバルスキー(Jリーグにも来た)
フランス:プラティニ
ブラジル:ジーコ(現在の日本の監督)、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ(黄金の中盤)
アルゼンチン:マラドーナ

 この大会で優勝したのはイタリアで3回目。
 その決勝で敗れた西ドイツとフランスの準決勝がものすごい激闘で延長戦−PK戦の末、西ドイツが勝ったのだがあまりにも劇的な試合になった。この延長戦の30分の間の4ゴールは恐ろしいほど劇的なドラマを生んだ。
 最後のゴールは西ドイツのオーバーヘッドでこの1点で西ドイツが奇跡の同点に追いつき、W杯史上初のPK戦を制して決勝へと駒を進めた。

 このときの感動があって、未だにドイツのファンなのです。
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