2015年05月31日

Jリーグに思う1


 いつからか、Jリーグでは移籍金0の移籍ばかりになってしまった。
 これでは、弱いチームが育てた選手が、チームに金を落としてくれないのでサッカー界の常識が日本では通用せず、弱小チームは金も得られず、選手の流出が止められないことになる。

 海外から見るとJリーグは成功しているということらしい。
 しかし、海外と日本の違いはサッカーで動く金の量が歴然と違う。

 この違いが埋まらない限り、日本が真のサッカー大国になる日は来ないだろう。

 つくづくスポンサーというのは何なのかと考えさせられる。
あくまで宣伝という位置づけならそこまでの話である。

 ジャストシステムと阿波踊りの関係を存じている人はいるだろうか。
 あれこそが地域密着型の出資というものである。

 企業は地域に金を落とす。地域の住民はその企業の心意気に応える。この関係が日本では成り立たない。
何故かといえば、地域に対する思い入れが海外のそれとは大きく異なるのである。

 文化が違うといえばそういうことだが、ならこの文化の中でサッカーが育つ仕組みを考えねばならない。
そう思うのは私だけだろうか。

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2012年05月06日

第9回トヨタカップ の記憶

 今回は第9回のトヨタカップですが、これの記憶はほとんどありません。。
 
 ヨーロッパ代表は、初めてオランダのチーム、PVSアイントフォーヘンが来日しました。

 そして南米代表は、ウルグアイのナシオナル・モンテビデオでした。

 記録は2−2で、PK戦になったようですが、延長でも点を取り合ってのPK戦ですから、なかなかの好ゲームだったはずですが覚えていません。 


 ただ記憶に残っているのはローマリオではなく、クーマンという選手です。
 彼はチームを変えて2度トヨタカップに出ています。

 ロマーリオとクーマンのゴールも実らず、PKの末敗れたアイントフォーヘンですが、クライフの後オランダが強豪国であることを示し続けてくれていました。

 まあ記憶も定かでない回はこの程度で。

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ちょっと独り言

 この年は88年、ヨーロッパ選手権を制したのはオランダでした。
 日本はというと、高校サッカーでは東海大一が二連覇を逃し、国見が優勝した年です。
 この年、日本はアジアカップに初出場(本戦)しました。
 結果はグループリーグ最下位で1勝も挙げられませんでした。
 日本サッカーの浮上はもう少し先の話です。

posted by appiy at 02:35| サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月13日

第8回トヨタカップ の記憶

 今回は第8回のトヨタカップですが、これも覚えています。
 
 ヨーロッパ代表として、初めてポルトガルのチーム、FCポルトが来日しました。アフリカの星と呼ばれたマジェールという選手が活躍していたチームでした。

 そして南米代表は、二度目の来日となるウルグアイのペニャロールでした。1882年のトヨタカップで来日し、イングランドのアストン・ヴィラを破ってタイトルを手にしています。

 この試合の記憶は、鮮烈なものが2つあります。
 そのひとつが、雪だったのです。

 朝起きて、あまりの寒さに窓を開けると、雪が積もっていました。
 12月に東京地方に雪が降ったのは非常に珍しいことでした。

 で、なのに、ヨーロッパ代表は雪の降らないポルトガルのチームでした。

 余談ですが、確かラグビーはその日、早稲田−明治の一戦が行われたと記憶しています。

 なので、まったく予想がつかないゲームとなりました。


 ゲームは両者とも雪の中での対戦に、様子を見ながらという感じだったと記憶しています。

 先制はポルトでした。前半42分と記録にはあります。
 実はこれ、第8回にして、ヨーロッパのチームが始めてリードした瞬間でした。
 プラティニの幻ゴールが認められていれば別ですが、公式には日本で行われるようになって初めてヨーロッパのチームがリードしたのです。

 試合はこのままでは終わりません。ペニャロールが追いついたのは80分とありますから、後半の35分ですね。
 日本で行われたトヨタカップで1点も取れなかった南米のチームはいません。今回もつながりました。

 そして試合は延長戦にもつれ込みます。

 マジェールのヒールシュートがゴールに吸い込まれた瞬間のアナウンサーの絶叫が今もこびりついています。

 そして、ポルトが勝ったのです。

 PKではない初めてのヨーロッパ勢の勝利でした。

 確か、雪のないところでこのゲームの再戦が企画された話を新聞で見ました。
 結果はどうだったのか、私は知りませんが・・・。 どなたかご存知でしょうか?


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ちょっと独り言

 この年は87年、日本サッカーはW杯出場を逃し、日本代表は苦しんでいました。

 奥寺、尾崎はドイツのブンデスリーガで戦っていたのですが、あまり知られていませんでした。

 当時、多くの国の人は日本人がサッカーをしているとは知らなかったかもしれません。

 世界への扉をこじ開けていく息吹はこのあたりから、聞こえてきたと今にしてではありますが、思っています。

  
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2010年10月11日

第7回トヨタカップ の記憶

 今回は第7回のトヨタカップですが、これは少し覚えています。
 
 ヨーロッパ代表として、初めて東欧のチーム、ステアウア・ブカレストが来日しました。ルーマニアのチームです。
 そして南米代表は、3年連続でアルゼンチンのチームがリベルタドーレス杯を制してやってきました。リバープレートです。


 注目すべき選手はリバープレートのフネスでした。
 彼はちょっと太ったマラドーナみたいな印象の選手でしたが、巧い選手でした。

 対するステアウアも非常に細かなパスを巧くつなぐチームでした。
 特にヒールパスが多かったのが印象的です。

 つまりテクニック系の対戦になったわけです。

 ただし、巧いといっても両者には違いがありました。
 組織と個人の集まりの違いで、相手の想像力を超えるプレーはやはり南米にありました。

 結局、リバープレートが先制して逃げ切るという形になりました。

 巧さと強さの違いが出たようなゲームでした。

 とにかく巧いという両者の対戦だったという記憶です。



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ちょっと独り言

 この年は86年、メキシコW杯の年でした。

 ヨーロッパサッカーの中心はイタリアにありました。

 マラドーナ、プラティニ、ルンメニゲ等のスター選手はみんなイタリアにいたのです。

 この年、優勝したのはアルゼンチンだったのは以前書きました。

 日本は韓国に勝てば出場できたW杯でした。
 
 マラドーナの大活躍で優勝したアルゼンチンでしたがその道のりは険しく、厳しい戦いを制して勝ちあがりました。

 スーパースターの時代と呼ばれた時代でした。
 
posted by appiy at 21:28| サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月19日

第6回トヨタカップ の記憶

 今回は第6回のトヨタカップですが、これには鮮烈な記憶があります。
 
 ヨーロッパ代表として、初めてイタリアのチームが来日しました。ユベントスです。
 そして南米代表は、アルヘンチノス・ジュニアースでアルゼンチンのチームが2年連続でリベルタドーレス杯を制してやってきました。

 アルヘンチノスはかつてマラドーナが在籍したチームです。

 その当時、マラドーナはイタリアのナポリ所属だったかと思います。

 そして来日したユベントスは将軍プラティニが10番をつけていました。

 前半は静かに幕を開け、スコアレスで折り返しました。

 そして先制はアルヘンチノスでした。
 また、今年も南米の勝利なのかと思いましたが、この年は違いました。

 PKを奪ったユベントスがプラティニのゴールで追いつきました。

 そこから、記録に残らない記憶に残る幻のゴールが生まれます。

 パスを受けたプラティニがボールタッチをして球を浮かせ、身を翻して放ったシュートはきれいなラインを描いてゴールに吸い込まれます。
 しかし、FWの誰かがオフサイドポジションにいたためにオフサイドと判定されてしまいます。

 グラウンドに寝転がって不満そうなプラティニが印象的でした。

 これが「生涯最高のゴールは東京」とプラティニが言ったという幻のゴールでした。

 この後、更に試合は白熱します。
 そしてアルヘンチノスの次のゴールは、これぞカウンターというべき電光石火のゴールでした。

 あっけにとられるとはこのことでした。

 しかし、ゲームはまだドラマを残していました。

 プラティニのスルーパスが通り、ラウドルップが角度のないところからゴールを決めたのです。

 守りに入った南米のチームから点を取れたのは正直、驚きでした。

 かくして、魔法のような鮮やかなプレーの数々を見せ付けるかのようなゲームは延長戦でも決着がつかず、PK戦にもつれ込みました。

 そしてTVの放送時間がなくなったのです。

 結果はユベントスの勝ちでした。

 これが私の生涯でクラブチームの対戦ではベストゲームでした。

 そしてついに日本で開催されるトヨタカップの栄冠はヨーロッパへともたらされたのでした。

 それよりもなによりも、私の中にはサッカーのすばらしさが刻み込まれたゲームでした。


 しかし、この激闘の前に、サッカーの歴史に残る出来事がありました。
 このユベントスが日本に来る前のヨーロッパチャンピオンズカップの決勝でイングランドのフーリガンが暴れて、死傷者を出す惨事となりました。

 これが原因でイングランドのクラブチームは国際試合が禁じられてしまうのです。

 イングランドに唯一許された国際試合はナショナルチームによるゲームだけとなりました。

 そしてこの環境の中であのリネカーは育っていくのです。


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ちょっと独り言

 この日、サッカーではなかったのですが、もうひとつの激闘と呼べるゲームがありました。

 関東と関西の大学チャンピオンが覇を競う、アメフト大学ナンバー1決定戦の甲子園ボウルです。

 このゲームも史上まれに見る激戦のシーソーゲームでした。

 好ゲームの得意日みたいなものでもあるのかと思うような1日でした。

 ちなみにこの明治大学対関西学院大学の勝者は関学でした。

 アメフトのQBもまたファンタジスタかもしれないと思わされるゲームでした。

 時折見せられる綺羅星のごとき、鮮烈な記憶を残すゲームがまた見たくて、私はまた見てしまうのです。
 
posted by appiy at 22:39| サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月19日

第5回トヨタカップ の記憶

 今回は第5回のトヨタカップですが、これもほとんど覚えていません。
 
 ヨーロッパ代表はまたしてもイングランドのチームでリバプールでした。第2回のトヨタカップに続く来日で、5年間で4度イングランドのチームがヨーロッパチャンピオンズカップを制していたことになります。
 この翌年、ちょっと事件があって、それがきっかけとなって、イングランドのチームは第20回まで来日しません。
 黄金時代のイングランドではありました。
 南米代表はインディペンディエンテというアルゼンチンのチームでした。アルゼンチンのチームはトヨタカップでは初来日です。
 ウルグアイとブラジルが交互にきていたのですが、ついにアルゼンチンのチームがリベルタドーレス杯を制してやってきました。

 結果は1−0でインディペンディエンテでした。
 イングランドのチームは第5回までに4回来て、すべて無得点でした。

 南米勢はうまくてずるく勝利を求める。ヨーロッパ勢は強さを求める。そんな印象でしょうか。
 しかし、イングランドの速さはヨーロッパを制することができても、南米勢には通用しませんでした。

 W杯メキシコ大会で得点王になったリネカーが言っていましたが、イングランドには緻密な作戦はなかったと。彼は移籍してイングランドを出て緻密な作戦に始めて触れたのだということです。

 速さだけでは通じないと言い切るのはちょっと無理があります。
 それはトヨタカップは南米はシーズンオフにあたり、ヨーロッパはシーズン中にあたります。

 一発勝負で公平に思えますが、強行日程のヨーロッパ勢の不利は否めないところでしょうか。

 それでもいつになったら、ヨーロッパのチームが勝つのか、私の期待はそんなところでした。


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ちょっと独り言

 日本では、プロリーグが無いころでした。プロ契約する選手が出始めた時期です。

 日本サッカーは、ワールドカップまであと一歩まで行きながら、再び低迷していきます。

 日本サッカー浮上のきっかけは選手のプロ化だけでは足りなかったのです。

 それでも私はいつか日本が世界に上がっていくことを夢見ていました。

 まあ、そんな時代でしたね。
 
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2010年05月05日

第4回トヨタカップの記憶

 今回は第4回のトヨタカップですが、これもほとんど覚えていません。
 初めてドイツのチームであるハンブルガーSVというチームが来日して、日本で開催されたトヨタカップで初めてヨーロッパ代表が得点を取った試合ではあったのですが・・・。


 ヨーロッパ代表はドイツ勢でハンブルガーSVというチームでした。
 南米代表はグレミオというブラジルのチームでした。

 結果は2−1でグレミオでした。しかし延長戦までもつれる試合となりました。

 4回までやって南米はウルグアイとブラジルのみ、ヨーロッパは、イングランドとドイツ(当時は西ドイツ)のみでした。
 サッカーの勢力図は当時こんなだったのかもしれません。

 第6回大会までは、イングランドのクラブチームは強かったのです。
 そこで、ひとつの転機がヨーロッパには訪れるのですが、それはまたの機会にしましょう。

 とにかく、南米が相変わらず強いなあという感じでした。
 いつになったら、ヨーロッパのチームが勝つのか、私の期待はそんなところでした。


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ちょっと独り言

 日本では木村選手が日本で初めてプロになった頃でした。
 海外に渡ってプロになった選手はいましたが、日本でプロ契約できたのは木村選手が最初です。

 日本のサッカーがW杯を目指して国立競技場をフルハウスにしたことは、日本サッカーのプロ化へとつながったのでした。
 日本のプロサッカーへの大きな道しるべが、木村選手の伝説のフリーキックだったのかもしれません。

 あの時も日本は韓国に敗れてW杯を逃しました。

 韓国はすでにプロ化されていました。

 まあ、そんな時代でしたね。
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2009年11月23日

番外編 トヨタF-1撤退に思う

 その記事を見たとき思ったことは

 あらら・・・やっぱり!

 というのが、感想でした。

 HONDAはエンジンサプライヤーとしては勝つことは達成している。
 撤退と挑戦を繰り返す実績から、また来てくれるのではないかと思わせる。

 対して、TOYOTAはどうだろう。
 
 もう、出てきそうもないだろうなあ。

 思えばTOYOTAは後一歩がいつも足りない。
 レースに限って言えばだが。

 ルマンもF−1も後一歩及ばず勝利を手にする事なく去っていく。

 レースをやることに自動車メーカーとしてどれだけの意義があるのか判らない。

 市販車にその技術を転用すると言えば聞こえは良いが、最初から市販車用にその技術を開発した方が、遙かに安くつくだろう。

 結局、レースと(市販)車づくりは接点を持ちながらも、決して同じにはならない。
 人類の求める「誰よりも速く」と「日常の足」は別物なのだ。

 ブリヂストンも来年を最後に撤退する。

 F−1から日本の色が消えていくのは寂しいが、これも仕方ないことなのだろうと思う。

 元々、いつか日本のチームや日本人がF−1に出て、勝つ日が来たらいいなと思ったが、それはまだ果たせそうもないなと思う。

 日本製のマシン、日本製のエンジン、日本製のタイヤ、そして日本人ドライバー。この4つが揃って世界一になるの日は、当面来そうもない。



 それでも、俺はこれからもずっとF−1を見ると思う。

 誰よりも速く

 それを求める戦いはこの先も続いていくのだから。
 単純に好きだからね。

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2009年06月20日

第3回トヨタカップ の記憶

 今回は第3回のトヨタカップですが、これもほとんど覚えていません。
 南米が強いなあという印象しかなかったです。

 ヨーロッパ代表は3年連続でイングランド勢でアストン・ビラというチームでした。
 南米代償はペニャロールというウルグアイのチームでした。

 結果は2−0でペニャロールでした。

 3回までやって南米、ヨーロッパ合わせて3カ国のチームしか見ていないのですが、ウルグアイが強かったのですね。

 確かにワールドカップで南米勢で優勝を経験しているのはブラジル5回、ウルグアイ2回、アルゼンチン2回ですから強豪国だったわけです。

 しかし、ヨーロッパ勢は見事なまでに点が取れません。
 後でわかったことですが、ヨーロッパ勢はシーズンの途中で、この1戦に合わせて早くから来日して来る南米代表には利があったようです。

 に、しても3年やってヨーロッパ勢が無得点というのは、どうなのかと思ってしまっていた私なのでした。

 ワールドカップも見るようになって、少しずつサッカーの知識が増え始めたころでした。

 この年のワールドカップで、西ドイツのファンになった私としては、まだまだ駆け出しのサッカー好き程度でしたね。


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ちょっと独り言

 この頃から中盤という言葉を覚えました。

 HBでなくてMFという言葉も覚えました。

 うーむ、センターフォワードは相変わらずですが、インナーが左右にいて、ウイングも左右にいて、ハーフバックが3名、フルバックが2名、ゴールキーパーが1名などと覚えていたのですが、これはもう古すぎる記憶と言えるでしょうね。

 その意味では中盤ってなかったよなあ・・・。
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2009年06月07日

第2回トヨタカップ の記憶

 今回は第2回のトヨタカップですが、ほとんど覚えていません。
 南米が強いなあという印象しかなかったです。

 記録を調べるとジーコが来た年で、MVPはジーコでした。
 彼はあの時もらったセリカはまだ乗っているそうです。

 彼曰く「あれは、私にとってトロフィーと同じ」ということだそうです。

 ジーコ、黄金の中盤を支えたブラジル代表の10番を背負った男、彼の前で有名なのはペレですが、ペレからブラジル代表の10番を受け継いだのはリベリーノという選手だったらしいです。

 ペレはW杯に3度優勝しましたが、ジーコはついに1度も優勝できませんでしたが、彼自身チームの世界一タイトルはここで取っているわけですね。

 記録を書いておくと南米代表はフラメンゴ(ブラジル)でヨーロッパ代表はリバプール(イングランド)ですね。
対戦結果は3−0でフラメンゴの勝利でした。

 当時私はイングランドとイギリス(GB)の違いすらわかっていませんでした。
 イギリスと書くよりグレートブリテンと書いたほうが正確なのでしょうけど、イングランド、ウェールズ、アイルランド、スコットランドはラグビーとサッカーにおいては違う国となっていたのですね。

 で、当時のイングランドはヨーロッパでは強かったようです。とにかく速いというのがイングランドのサッカーの特徴でした。
 だから、トヨタカップの構図はイングランドのチームが連続して出ていた第3回までは、技対速さという構図だったように思えます。

 この技が速さを制したといえるかなと思えます。

 この時私は、単純に速いだけではダメなのだと思っていたのですが、この速いは恐ろしいほど凄いということは後々サッカーを知るたびに思っていくのですが、まだこのときはやっぱり技だなあと思っただけでした。

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ちょっと独り言

 速いが如何に凄いことなのか教えてくれたのはイングランド代表のリネカーという選手でした。
 サッカーの世界においてカウンターという速攻戦術がどれだけ凄いことか教わりました。

 チーム戦術、個人技、フォーメーションなど何かを有利にするための戦術の数々を知るのはもっと後のことです。
 ただひとつ、問答無用のストライカーだけは、どの時代においても必要不可欠ではあるような気がします。

 かつて日本には釜本というストライカーがいました。
 キーパーを壊したとか、いろいろありましたが、それ以降点の取れるフォワードは出現していますが、世界に通用するストライカーは日本にはまだ出ていないような気がします。

 日本的ではないのかもしれませんが、できればまたそんなストライカーが日本に現れてくれないかなと思う私でした。

posted by appiy at 18:52| Comment(1) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする