2006年12月30日

A.セナ(vs A.プロスト) の記憶

 さて、今回の88年のワールドチャンピオンはA.セナです。A.セナはHONDAエンジンを駆って初めてワールドチャンピオンになりました。
 コンストラクターズは昨年獲得していますからね。

 この年、セナープロ対決が始まります。
 この年はHONDAエンジンは年間16戦中15戦を制することになります。完勝と呼べる一年でした。 

 さて、タイトル争いに目を移しましょう。

 開幕戦はプロストが制します。
 ここからマクラーレンは11連勝を達成します。

 セナは8戦から11戦までの4連勝を含めて優勝7回、2位2回、リタイアが2回で75ポイントでした。
 プロストは4勝でしたが、2位が6回、リタイアは1回となり、72ポイントで3ポイント差につけていました。
 しかし、上位11戦のポイントが有効になるルールのため、プロストは優勝を積み上げるしかない状態になってしまっていました。

 そして第12戦、ストップ・ザ・マクラーレンをフェラーリのG.ベルガーが達成します。
 HONDAエンジン以外では、このG.ベルガーのフェラーリが1勝をあげただけで、残りはすべてマクラーレン・HONDAでしたからこの1勝には価値があります。
 ともにノーポイントだったセナープロですが、このレースだけの現象でした。

 第13戦を制したのはプロストで、ポイントは81ポイントで、1ポイントを取っただけのセナの76ポイントを上回りトップに立ちます。

 第14戦もプロストは勝利します。しかし有効ポイントは3増えただけで、4位で3ポイントを加えたセナとの差は開きません。
 プロストは84ポイント、セナは79ポイントです。

 第15戦の日本GPについにHONDAは勝利します。
 セナが勝ち、プロストは2位でしたがセナが有効ポイントを8ポイント伸ばしたのに比べ、プロストは1ポイントも増やせませんでした。
 セナが87ポイント、プロストは84ポイントで、勝利数の関係で、この時点でセナはチャンピオンを獲得したのです。
 もうプロストは優勝しないとポイントは増えません。増えても3ポイントで同点にしかならず、勝ち星はセナが上回っていたからです。

 プロストは意地で最終戦を制しますが、セナは2位に入りともに有効ポイントを3ずつ伸ばし、セナは90、プロストは87で終了します。

 とにかくマクラーレンの圧勝のシーズンでした。
 
 さてHONDAエンジンを搭載したロータスに乗るピケと中島にとっては、このシーズンは厳しいものでした。
 そして彼らはHONDAエンジンを失ってしまいます。

 翌年HONDAエンジンを失った二人は、ともに苦労することになるのです。

 しかし、日本GPで、スタートでエンジンを一度止めてしまったセナと中島のごぼう抜きは見ごたえがありました。
 予選でピケと中島が同タイムだったのは、私にとっても溜飲が下がる出来事でした。


−−−−−−−−−−−−−−

ちょっと独り言

 88年はマクラーレン・HONDAの年でした。
 セナープロ対決はこの年から始まります。
 速いセナは徐々に強さを身に付けていきます。
 その一番の師匠はプロストだったのでしょうね。

 プロストがラウダから学んだように。

 80年代の主役たちの競演はまだまだ続きます。

 ピケはついに1勝も出来ないシーズンを送りました。しかし、彼はチャンピオンにはなれなくてもまだがんばります。
 中島も翌年のアデレードで、彼の最高のパフォーマンスを見せてくれます。
 
 そして鈴木亜久里が日本人としてはじめて表彰台に立つは来年のお話です。

 
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2006年11月25日

N.ピケ(vs N.マンセル) の記憶

 さて、今回の87年のワールドチャンピオンはN.ピケです。彼は自身3度目のチャンピオンを獲得します。過去2回とは異なった最終戦を待たずに決めたチャンピオンでした。
 しかし、この年は私にとっては歴史的な一年でした。
 ついに日本人のF-1レギュラードライバーが誕生した年であり、10年の時を経て、F-1日本GPが帰ってきた年でもあったのです。

 中島悟がロータスのセカンドドライバーとして、F−1デビューを果たして、大いに期待を持った年でした。

 中島のデビュー戦は第1戦のブラジルGPでした。ポイントは取れませんでしたが、7位と健闘しこの先の飛躍を期待しました。

 さて、タイトル争いに目を移しましょう。

 開幕戦はプロストが制します。
 この年はHONDAエンジンは年間16戦中11戦を制することになります。
 HONDAエンジン以外では、プロストのマクラーレンTAGが3勝、G.ベルガーのフェラーリが2勝をあげただけで、残りはすべてHONDAエンジンユーザの3人が上げました。

 しかし、チームでいうと同じHONDAエンジンを使っていてもロータスの2勝に対してウイリアムズは9勝ですからチームとしては圧倒的にウイリアムズでした。
 
 さて、第2戦をはマンセルが制しますが、第3戦はプロスト、第4戦、第5戦はセナと優勝者は移っていきますがN.ピケは勝てませんでした。しかし5戦中2位が3回で18ポイントを獲得していました。
 1勝をあげていたマンセルも5戦で12ポイントでしたから、上位に、プロストとセナがいたわけです。

 しかし、第6戦、第7戦とマンセルが連勝します。その間ピケはどちらも2位をとります。
 結果、セナが31ポイントで首位でしたが、マンセルとピケが30ポイントで、それに続いていました。
 プロストは26ポイントなので、この時点ですでにランキングは4位まで後退してしまいました。

 この後の第8戦で今シーズン初優勝を遂げたピケが9戦も制します。この2レースでマンセルは1ポイントも取れませんでした。
 その結果、ピケは48ポイントで首位にいました。マンセルがポイントを取れなかった間にセナもポイントを伸ばし41ポイントで2位に、3位はマンセルとプロストが30ポイントで並んでいました。

 ここでマンセルが逆襲に出ます。
 第10戦をマンセルが制しますが、ピケは2位です。
 走りきれば2位か1位しかないピケは抜群の安定感です。

 しかし、続く第11戦をピケが制します。
 マンセルは3位に終わり、差がまた開きます。

 第11戦終了時点ではこうなっていました。
 
1位 N.ピケ   63ポイント
2位 A.セナ   51ポイント
3位 N.マンセル 43ポイント
4位 A.プロスト 31ポイント

 しかし、A.プロストが第12戦を制し、セナ、マンセルがそろってノーポイントだった間にしたたかなピケは、3位に入り4ポイントを伸ばします。
 ポイントランクは次のようになりました。
1位 N.ピケ   67ポイント
2位 A.セナ   49ポイント
3位 N.マンセル 43ポイント
4位 A.プロスト 40ポイント

 残るは4レース、後がないマンセルは第13戦を制します。プロストも2位を奪ってポイントを積み上げます。しかしクレバーなピケは4位をゲットします。
 セナも5位に入りなんとか2ポイントを積み上げました。
1位 N.ピケ   70ポイント
2位 N.マンセル 52ポイント
3位 A.セナ   51ポイント
4位 A.プロスト 46ポイント

 そして残る3レース、第14戦でマンセルが勝利を収め、ピケへの挑戦権をかろうじて残します。セナ、プロストはともにノーポイントに終わり、チャンピオンはついにピケとマンセルの争いに絞られたのです。
1位 N.ピケ   73ポイント(総ポイントは76)
2位 N.マンセル 61ポイント
3位 A.セナ   51ポイント
4位 A.プロスト 46ポイント


 そして第15戦は、日本GPでした。私にとって初めて生で見るF−1GPとなりました。
 しかし、私が土曜日に現地についたときには、すでにチャンピオンが決定していたのです。

 予選でクラッシュしたマンセルの今シーズンは終わりました。その時点でピケのチャンピオンが確定しました。

 そして日本ファンの前でHONDAの勝利が期待されました。
 しかし、ピケはリタイアし、突如よみがえったフェラーリのG.ベルガーが独走で優勝をさらっていきました。

 思えばベルガーは昨年も第15戦を制しています。不思議なドライバーです。

 ウイリアムズHONDAの2台はあえなく終わってしまったので、ロータスに期待が高まりますが、セナが最後に2位になって中島が6位に入り日本GPは終わりました。

 消化試合となった第16戦もベルガーが制しますが上位4名はノーポイントでしたので、最終結果は以下のとおりです。
1位 N.ピケ   73ポイント(総ポイントは76)
2位 N.マンセル 61ポイント
3位 A.セナ   57ポイント
4位 A.プロスト 46ポイント


 N.ピケは3度目のタイトルを獲得しました。これが最後の獲得です。ブラジル人としてエマーソンを超えました。2年間ランキングの上位4名の顔ぶれは変わりませんでした。
しかし、この年でウイリアムズとHONDAの関係は終わります。
 マクラーレンがHONDAエンジンを獲得します。
 そしてセナ−プロ対決が本格的に開幕するのです。


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ちょっと独り言

 87年もウイリアムス・HONDAの年でした。
 マンセルはウイリアムズでチャンピオンを獲得できないままHONDAエンジンを失います。
 彼が報われるのはまだ先のお話です。

 そしてA.プロストはA.セナという強敵と同じチームになります。
 80年代の主役たちの競演はまだまだ続きます。

 ピケはチャンピオンは確かにこれが最後でしたが、この後もいい仕事をしていきます。
 そしてウイリアムズはパワーを失ってから再び這い上がるための戦いが始まります。
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2006年11月19日

A.プロスト(vs N.マンセル vs N.ピケ) の記憶

 さて、今回の86年のワールドチャンピオンは2年連続でA.プロストです。
 ディフェンディングチャンピオンの彼でしたが、この年はウイリアムス・HONDAの2人と激しく争うことになります。

 そのウイリアムス・HONDAはこの年は絶好調でした。2度のチャンピオンに輝いたN.ピケとN.マンセルの二人は皮肉なことに争い続けたためにどちらもチャンピオンを逃してしまうのです。

 開幕戦を制したのはピケでした。
 しかし、第2戦はロータスに乗るA.セナが勝ちました。
 第3戦、第4戦はプロストが制します。

 第5戦、第6戦はマンセルが制しました。
 第7戦ではセナが2勝目を上げます。

 この4人はチャンピオン争いの主役になりました。
 
 しかし、ここから第8戦、第9戦をマンセルが制し、第10戦、第11戦をピケが制したことで、ウイリアムスが圧倒的優位に立ちました。

 第11戦終了時点では、マンセルが優位でした。ポイントランクは以下の様になります。
1位 N.マンセル 55ポイント
2位 A.セナ   48ポイント
3位 N.ピケ   47ポイント
4位 A.プロスト 44ポイント

 しかし、A.プロストが第12戦を制して形勢が変わり始めます。上位3人がそろってノーポイントだったことも利いてきます。
 ポイントランクは次のようになりました。
1位 N.マンセル 55ポイント
2位 A.プロスト 53ポイント
3位 A.セナ   48ポイント
4位 N.ピケ   47ポイント

 そこで、ウイリアムスも逆襲に出ます。第13戦で、ピケ、マンセルがワンツーを決めます。再びランクが動きます。
1位 N.マンセル 61ポイント
2位 N.ピケ   56ポイント
3位 A.プロスト 53ポイント
4位 A.セナ   48ポイント

 ピケの過去2回のチャンピオンは、どちらも最終戦での逆転です。だんだんピケのペースになってきたようにも思えました。
 しかし、マンセルも渾身の反撃で第14戦を制します。この時点で、形勢は決まったかに見えました。
1位 N.マンセル 70ポイント
2位 N.ピケ   60ポイント
3位 A.プロスト 59ポイント
4位 A.セナ   51ポイント

 残りは2戦で、セナはもう難しいところに来てしまいました。
 第15戦で4人はそれぞれ入賞しますが、今シーズン初めてこの4人以外の優勝者が出ます。それがG.ベルガーでした。
 ベネトンに初優勝をもたらした歴史的な一勝でした。

 その結果、ポイントランキングはこうなりました。
1位 N.マンセル 70ポイント(総ポイントは72)
2位 A.プロスト 64ポイント(総ポイントは65)
3位 N.ピケ   63ポイント
4位 A.セナ   55ポイント

 これで、マンセルのチャンピオンはほぼ決まったかに思えました。
 しかし、二人のワールドチャンピオンがそれを追っています。そして運命の最終戦に突入するのです。
 N.マンセルは予選で1位だったにもかかわらずリタイアしてしまいます。
 そして勝ったのはプロスト、ピケは2位でした。この順位が入れ替われば、チャンピオンも入れ替わったはずですが、プロストはピケへの借りを返すことに成功したのです。

 最終結果はこうなりました。
1位 A.プロスト 72ポイント(総ポイントは74)
1位 N.マンセル 70ポイント(総ポイントは72)
3位 N.ピケ   69ポイント
4位 A.セナ   55ポイント

 ウイリアムスがチャンピオンを取ると思われたこのシーズンで、最後にチャンピオンを奪って行ったのはプロストでした。
 速さと強さを兼ね備えたプロストは、その強さに磨きかけ、勝負強いピケに競り勝ち、マンセル、セナをも退けてタイトルを守ったのでした。


 A.プロストは2度目のタイトルを獲得しました。常にタイトルを争い、戦い続けたプロストですが、翌年は苦戦を強いられます。
ウイリアムス・HONDAは翌年さらに進化します。
 そして、私が待ち焦がれたF−1が日本にやってくるのです。



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ちょっと独り言

 86年はウイリアムス・HONDAの年でした。
 チームオーダーがはっきりしたチームだったらこういう結果にはならなかったでしょう。

 しかし、プロストはその速さを更に際立たせていくのです。
 そしてもう一人、A.セナがステップを駆け上がって彼に迫りつつありました。
 N.マンセルもチャンピオンには縁がないかと思われましたが、彼は彼なりに頂点へと上っていくのです。

 
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2006年11月11日

A.プロストの記憶

 さて、今回の85年のワールドチャンピオンはA.プロストです。
 82年以来、毎年チャンピオン争いに顔を出しながら3度敗れた彼でしたが、この年の彼は違いました。

 84年タイトルを争ったN.ラウダとA.プロストのコンビは今年も健在のマクラーレンはこの年も速さを維持していました。

 開幕戦を制するプロストでしたが、続く第2戦、第3戦はロータスに乗るA.セナ(前の年まではA.S.ダ・シルバとなっていました)とE.デ・アンジェリスが制します。
しかし、第4戦を制したプロストでしたが、ここから、フェラーリに乗るM.アルボレートとの争いになります。

 開幕4戦で、未勝利ながら2位に3回なったアルボレートと2勝のプロストは18点で同点でした。
 そこから第11戦までの間、二人は2勝ずつ上げ、ポイントも激しく競り合いました。

 第11戦終了時点では、プロスト56、アルボレート53とどちらがチャンピオンになるか予断を許さない状況でした。

 マクラーレンのラウダはこの年は不調で第11戦で初勝利を上げますが、年間で14ポイントしか取れませんでした。
 N.ピケも第7戦を制しますが、いい所なく年間で21ポイント止まりでした。

 HONDAエンジンのウイリアムスですが、K.ロズベルグが第6戦を制しますが、安定した結果は残せませんでした。
 ウイリアムスの僚友N.マンセルもポイントを取るのがやっとの展開ばかりで、11戦までで7点どまりの状況でした。

 チャンピオン争いは、そこから急激に趨勢が決まってしまいます。
 M.アルボレートはついにその後1Pも取れなかったのです。

 プロストも第12戦を制しますが、HONDAパワーが急激に目覚め、セナ、マンセル、マンセル、ロズベルグが最終戦まで勝ち続けたのです。

 しかしプロストのこの年は安定感がありました。
 しぶとくポイントを積み上げて、トータル76点、有効ポイントは73となり、圧倒的差でチャンピオンを決めたのです。


 フランスの悲願は、85年についに達成されます。

 フランスのすべての期待を背負ったA.プロストはついにチャンピオンになりましたが、その間に次世代のチャンピオンたちは育ってきていたのです。
彼の死闘はその後も繰り広げられることになります。



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ちょっと独り言

 85年はプロストの年でした。
 ラウダの不調もあり、HONDAエンジンの目覚めも遅く、フェラーリも後半に息切れしてしまったため圧倒的な差でチャンピオンになりました。

 彼が速いドライバーから強いドライバーになったのはこの年からだったと思います。

 
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2006年11月04日

N.ラウダ(VS A.プロスト)の記憶

 さて、今回の84年のワールドチャンピオンは既に一度出てきているN.ラウダです。
 ところで、この84年のチャンピオン争いは、私の記憶にある限り史上最高の接戦でした。
ポイント差は0.5。神様でもこの演出はできません。

 その争いはタイトルにあるN.ラウダと、A.プロストによって行われたのです。

 もうひとつ、復帰したHONDAが優勝を遂げたのもこの年でした。

 さて、F−1はターボの時代のF−1はパワフルです。
 しかし、チャンピオンになったマクラーレンのマシンは、予選は最速というわけではありませんでした。

 それはチームの方針で予選ではブースト圧を上げない方針だったからです。

 開幕戦は、プロストが制します。第2戦はラウダが制します。第3戦を仲良くリタイア(優勝はフェラーリのM.アルボレート)した二人ですが、第4戦をプロストが、第5戦をラウダが制します。

 そして、最後に明暗を分けることになった第6戦のモナコGPは2/3以上の周回数がクリアできず、ポイントは半分になりました。
 ここを制したプロストが得たのは半分の4.5ポイント。もしこれが9点だったら・・・。

 それは結果論ですね。

 そこからブラバムのN.ピケの逆襲が始まったかと思われた2連勝があったのですが、ピケはこの2戦以外は振るわず、年間で5回しか入賞できず、ランキングは5位にとどまります。
 そして、フェラーリに久しぶりに乗ったイタリア人ドライバーM.アルボレートですが、彼も1勝どまりで、ランキングは4位に終わります。

 ランキング3位になったのは、この年の勝利数は0ながらコンスタントに入賞を重ねたロータスのE.デ・アンジェリスでした。

 そして、ランキングでは8位に終わったK.ロズベルグが第9戦を制し、HONDAに何十年ぶりかの優勝をもたらしました。

 しかし、ランキング3位のデ・アンジェリスのポイントはチャンピオン争いをした二人の半分にも満たないポイントでした。

 第10戦から第16戦までの7レースは常に二人のどちらかが優勝する展開となったのです。

 第10戦をラウダが制し、プロストはリタイアに終わります。
 これで二人のポイントは

1位 A.プロスト 35.5
2位 N.ラウダ  33

 となりました。

 第11戦はプロストが制します。しかしラウダが2位に入賞します。その結果ポイントは

1位 A.プロスト 44.5
2位 N.ラウダ  39

 となりました。

 第12戦はラウダが制し、プロストはリタイアしてしまいます。その結果ポイントは

1位 N.ラウダ  48
2位 A.プロスト 44.5

 となってラウダがポイントリーダになりました。
 残る葉4戦、セナ−プロ対決の如く二人は火花を散らして争います。
 続く第13戦、プロストが勝利しますが、ラウダが2位に入り、プロストはラウダを抜けません。

1位 N.ラウダ  54
2位 A.プロスト 53.5

 そして、第14戦、ラウダが制し、プロストはリタイアしてしまうのです。

1位 N.ラウダ  63
2位 A.プロスト 53.5

 しかしプロストはあきらめません。第15戦を制してラウダに迫ります。しかしラウダもしぶとく4位に入り3点を加えました。

1位 N.ラウダ  66
2位 A.プロスト 62.5

 二人のポイント差は3.5、ラウダは6ポイントでチャンピオンです。
 その最終戦、プロストは最終戦を制します。しかし、ラウダはしぶとく2位に入り、プロストを0.5ポイント差で振り切ったのです。
 最終結果は次のようになりました。

1位 N.ラウダ  72
2位 A.プロスト 71.5

 F−1史上、もっとも僅差のチャンピオン争いで、N.ラウダは3回目のチャンピオンを取るのです。

 インタビューに答えたプロストはこう答えました。
「結果は判っている。それで、ファーステストラップは俺か、ニキ(ラウダ)か?」

 彼は誰よりも速いことに自らの誇りを賭けていたのです。


 フランスの悲願は、84年も潰えました。
 82年、83年プロストはチャンピオン争いにいつも顔を出していました。
 そして、この年も敗れてしまったのです。

 フランスのすべての期待を背負ったA.プロストは2人のチャンピオンとの死闘で本当に強いドライバーへとなっていくのです。



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ちょっと独り言

 個人的に私はA.プロストというドライバーが好きです。
 彼は常に強いドライバーに囲まれていました。
 ラウダ、ピケ、セナ、マンセル、皆彼と戦ってチャンピオンを取るドライバーです。

 その中で、彼は記録を打ち立てていった凄いドライバーでした。
 フランスの期待を背負って彼はF-1という世界で戦い抜きます。

 やがて苦労して、頂点に立った彼は、次世代のドライバーたちと戦っていくのです。

 
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2006年10月28日

N.ピケ(VS A.プロスト)の記憶

 さて、今回の83年のワールドチャンピオンは既に一度出てきているN.ピケです。
 ところで、この83年はチャンピオン争い以上に注目する出来事があった年でした。

 それは、HONDAがF−1に帰ってきた年だったからです。
 HONDAはF−2エンジンを開発してヨーロッパのF−2に挑みました。最初のドライバーはN.マンセルです。

 ヨーロッパでスピリットチームはF−2の王者になってF−1に進出します。
 そのときHONDAもF−1へと帰ってきたのです。

 しかし、スピリットはF−1では目だった戦跡を残せませんでした。
 ですが、HONDAはこの年の最終戦でウイリアムスにエンジンを搭載し、5位に入賞したのです。

 さて、F−1はターボの時代に突入しました。
 チャンピオンになったピケのブラバムはBMWのF−2用直4エンジンにKKKのターボを搭載したエンジンでした。
そして、マクラーレンは、ポルシェの技術を用いたTAGと呼ばれるエンジンを搭載していました。

 そしてターボといえばすべてKKKだったときにHONDAが搭載したのはIHIのターボです。
IHIは石川島播磨重工です。IHIは甘く見てはいけません。日本の自衛隊に採用されていたファントムのエンジンはIHIで作っていたのですから。

 このジェットエンジンとターボの技術は実は元は同じです。スーパーチャージャーが原点です。

 やがて1000馬力を超えるところまで至る競争は、徐々に激化していくのです。

 緒戦を制したのはピケでした。その後も勝てないながらも順調にポイントを積み上げていきました。

 第2戦を制したマクラーレン(J.ワトソン)でしたが、その後はジリ貧になります。

 第3戦を制したのはA.プロストでした。そこから彼は快進撃を続けます。第11戦で4勝目をあげた時点で51点となり、タイトルはプロストで決まったかに思えました。

 フェラーリもがんばります。
 R.アルヌー、P.タンベイの二人でポイントを積み上げました。

 全15戦も11戦終了時点でのポイントは以下のようになっていました。
rd.11ドイツGP終了時点
1.A.プロスト 51
2.N.ピケ   37
3.R.アルヌー 34
4.P.タンベイ 31

 フランスの悲願は、この年達成されるものと思われました。

そして12戦オランダGPをR.アルヌーが制します。その結果ランキングはこうなりました。
1.A.プロスト 51
2.R.アルヌー 43
3.N.ピケ   37
4.P.タンベイ 37

 フランス人のワンツー体制です。これで見えたと思っていたのですが・・・。
 そこからN.ピケが2連勝を飾るのです。
 最終戦を前にした14戦終了時点でピケが14戦を制しますが、プロストは2位に入り逆転を阻止しました。
1.A.プロスト 57
2.N.ピケ   55
3.R.アルヌー 49
4.P.タンベイ 40

 最終戦でチャンピオンの権利を持っていたのは上位3人でした。しかし、ピケは勝負強く最終戦で3位に入りリタイアしたプロストを逆転するのです。
 最後の最後にピケはチャンピオンの座を掠め取って行きました。実はこの借りはやがてプロストが返すことになるとこのとき思っても見ませんでした。
最終結果はこのようになりました。
1.N.ピケ   59
2.A.プロスト 57
3.R.アルヌー 49
4.P.タンベイ 40

 この最終戦でウイリアムスのK.ロズベルグが、HONDA復帰以来初のポイントをゲットしたのですが、それはチャンピオンシップには何の影響も与えない出来事でした。

 フランスの悲願は、83年も潰えました。
 そしてまた翌年も、更にものすごいドラマの末、フランスの悲願は潰えてしまうのです。

 フランスのすべての期待を背負ったA.プロストが強くなった背景にいるもう一人のチャンピオンとの死闘が翌年繰り広げられるのです。


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ちょっと独り言

 実は、個人的にこの時代のルノーチームは好きではありませんでした。
 カラーリングとデザインがいまひとつだったんです。

 そういえばN.ピケ、いつも最終戦で、チャンピオンになります。
 
 めぐり合わせが良いのか、勝負強いのか、おいしいところをさらっていくのが彼のパターンですね。

 この頃から、私の中でA.プロストの印象は強くなっていきます。
 そして翌年、決定的な印象が私に植え付けられるのです。
 その話は次回しましょう。
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2006年10月21日

K.ロズベルグの記憶

 さて、今回は82年のワールドチャンピオンのK.ロズベルグです。
 K.ロズベルグは北欧出身のドライバーです。

 この年は、不幸な出来事が多かった年でもあります。
 カナダの英雄G.ビルヌーブが不幸にしてこの世を去り、何かと揉めていた僚友D.ピローニもチャンピオンシップをリードしながらシーズン途中で事故のためいなくなり、しかしフェラーリはコンストラクターズタイトルは取ります。

 C.ロイテマンもレースフィールドから去ってしまいました。

 さて、フィンランド初のワールドチャンピオンK.ロズベルグですが、現役ドライバーのN.ロズベルグの父です。
親子なのにN.ロズベルグの国籍はフィンランドではありません。不思議ですね。

 さて、彼を評する言葉にこのようなものがあったことを記憶しています。
 「初めてのサーキットと市街地コースでは滅法速い」

 そう、彼は北欧出身に恥じないドライバーだったのです。

 ところで、82年のシーズンを語る前に、ここまでフランス人のワールドチャンピオンは一人もいないということを一言添えておきます。

 82年のシーズンはフランスにとってフランス人がワールドチャンピオンを獲得する大きなチャンスの年だったのです。

 この年、開幕からルノー(フランス)に乗るA.プロスト(フランス人)が連勝します。しかし、ルノーも僚友のR.アルヌー(フランス人)もその後、第10戦までポイントがまったく取れませんでした。
 第3戦はN.ラウダ(マクラーレン)が制しますが、同じマクラーレンのJ.ワトソンが中盤は2勝してポイントを稼ぎますが、マクラーレンはシーズンを通して安定した強さを発揮できませんでした。

 良かったのはフェラーリのD.ピローニ(フランス人)ですが、彼もシーズン途中でポイントリーダでありながら、事故で戦列を離れます。

 シーズンを通して安定してポイントを稼いだのがK.ロズベルグでした。勝てなかったのですが、安定度は抜群でポイントを徐々に蓄えていきました。

 そして運命の第13戦スイスGPだったと思います。
 ポイントリーダはすでに戦列を離れているD.ピローニで39点、続く2番手は33点のK.ロズベルグ、3番手は30点のJ.ワトソン、そして4番手に25点のA.プロストがいました。

 最終ラップ、トップはK.ロズベルグ、2番手はA.プロスト、2台はその順位のままゴールかと思われたが、なんとチェッカーは振られず、1周多くなったのです。
しかし、クレバーなロズベルグはトップを守りきり、自身の初優勝と、ポイントリーダへの浮上を成し遂げたのです。

 フランス人初のワールドチャンピオンは消えました。プロストも最終的には届かず、4位に終わりました。
最終順位は

1.K.ロズベルグ 44
2.D.ピローニ  39
2.J.ワトソン  39
4.A.プロスト  34
5.N.ラウダ   30

となりました。

 フランスの悲願は、その年も潰えました。
 そして翌年もものすごいドラマの末、フランスの悲願は潰えてしまうのです。

 フランスのすべての期待を背負ったA.プロストがその期待に応えるのはもう少し先です。


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ちょっと独り言

 実は、個人的にK.ロズベルグの印象は薄いんです。
 この時代に速かったD.ピローニ、G.ビルヌーブはこの年に共に消えてしまいました。
 孝行息子のJ.ビルヌーブはチャンピオンになりますが、エンツォ・フェラーリが最後に愛したドライバーがG.ビルヌーブでした。

 私が彼の死を知ったのは、英字新聞JapanTimesの記事でした。
 殆ど読めなかったのですが、それだけはわかりました。

 F-1の情報に飢えていた私は、少しでも早く情報を知ろうと苦労していた時期でした。

 D.ピローニはF−1の事故では死にませんでしたが、パワーボートのレース中に事故死していしまい、最後までスピードを求めていた彼の生き様はすごいものがあったと思う。
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2006年10月14日

N.ピケの記憶

 さて、今回は81年のワールドチャンピオンのN.ピケです。
 この頃、私の情報源のほとんどはオートスポーツという雑誌でした。

 N.ピケはブラジルの英雄E.フィッティパルディの後、ブラジリアンとして2人目のワールドチャンピオンになりました。
彼はかなり若くして成功したドライバーです。

 この年、開幕からウイリアムズが連勝し、A.ジョーンズとC.ロイテマンは共に優秀なドライバーでした。
 その二人に敢然と挑んだのがN.ピケです。

 開幕から5戦はN.ピケ2勝、C.ロイテマン2勝、A.ジョーンズ1勝で、この3人がチャンピオンシップをリードします。

 しかし、6戦目から様相が変わってきます。
 フェラーリのGビルヌーブ、ルノーのA.プロスト、リジェのJ.ラフィーらが勝利を挙げて、それ以降、N.ピケは1勝、A.ジョーンズも1勝どまりで、C.ロイテマンは勝てませんでした。
チャンピオンになったN.ピケのポイントは50ですが、最終的に40ポイント以上のドライバーはピケを含めて5人もいたのです。

 年間3勝のピケはA.プロストと並んで最多勝でしたが、プロストは前半が悪すぎたため、チャンピオンには届きませんでした。

 最後のアメリカGPを前にチャンピオンシップのポイントはこうなっていました。

1位 C.ロイテマン 49
2位 N.ピケ    48
3位 J.ラフィー  43
4位 A.ジョーンズ 37
5位 A.プロスト  37

 チャンピオンの可能性は3人にありました。

 しかし、運命のアメリカGPでC.ロイテマンは8位に沈みノーポイント、優勝は僚友のA.ジョーンズ、2位はA.プロスト、3位はアルファロメオに乗っていたB.ジャコメリ、4位はロータスに乗っていたN.マンセル、そして5位で2ポイントを獲得して逆転でチャンピオンにN.ピケがなりました。
逆転チャンピオンを狙っていたもう一人のJ.ラフィーも6位で1ポイントしかとれず、最終的なランキングは次のようになりました。

1位 N.ピケ    50
2位 C.ロイテマン 49
3位 A.ジョーンズ 46
4位 J.ラフィー  44
5位 A.プロスト  43

 史上まれに見る激戦のチャンピオンシップを制したN.ピケでしたが、レース後は自力で立ち上がれないほど消耗して助け起こされるように立ち上がったのをTVで見ました。
 悲運のドライバーC.ロイテマンはチャンピオンになることなく、F−1を去りますが、彼が一番チャンピオンに近かったのはこのときでした。

 F−1における劇的な幕切れは多いですが、このような激戦はそう多くはありません。
 本当に面白いシーズンでした。

 N.ピケはその後83年、87年にもワールドチャンピオンを取ります。
 恐ろしく速いドライバーでした。

 ブラジル出身のチャンピオンの系図はやがてA.セナに受け継がれます。
 しかし、ピケの残した功績は大きく、自身の名前がサーキットにつけられたほどである。

 83年の戦いも彼は最終戦でA.プロストとの2点差を逆転しており、彼は本当に勝負強いのである。
 87年は鈴鹿でマンセルが予選でクラッシュしてしまい、チャンピオンを決めている。

 ここ一番で取りこぼさない強さがN.ピケの強さだったと思う。

 その彼が、F−1ドライバーとしての終盤に、ベネトンに乗った。
 そして、ジョーダンから電撃移籍をしてきたM.シューマッハを評して言った。

 「奴は速い!」

 その言葉は後々、M.シューマッハ自身の功績によって証明されるのである。

 最近、N.ピケの息子がF−1のテストドライブを経験して話題になった。
 彼も最速の遺伝子を受け継いでいるのか見てみたいものである。

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ちょっと独り言

 シューマッハの引退の前にあのピケの一言が書きたかったので、ちょっとほっとします。
 シューマッハは今でこそフェラーリの印象が強いが、私はベネトンの印象が強いです。
 
 モナコまで行って見たときの速さは圧巻でした。
posted by appiy at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | F-1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月08日

A.ジョーンズの記憶

 さて、今回は80年のワールドチャンピオンのA.ジョーンズです。
今でこそ強豪のウイリアムズですが、ウイリアムスで初めてチャンピオンになったのはこのA.ジョーンズです。

 79年ウイリアムスは躍進し一躍強豪の仲間入りを果たします。
 A.ジョーンズは弱小チームを渡り歩いてきたドライバーでしたが、シャドウで得た1勝が彼の運命を切り開き、さらにウイリアムスの躍進とにあわせてチャンピオンへと駆け上がります。

 80年に入り、ウイリアムスの速さは確固たるものになっていく。
 開幕戦を制したA.ジョーンズであったが、この後ルノーのR.アルヌーの2連勝され、更にブラバムに渡ったN.ピケ(この頃表記はN.ピケットと書かれていたので私のなじみはこっち)に勝利されて圧倒的だったわけではない。

 その後のモナコを制したのも同じチームにいたC.ロイテマンだった。
 しかし、その後の2連勝で流れを呼び寄せ、終盤のN.ピケの反撃も及ばずラスト2戦に連勝しチャンピオンになったのであった。

 80年代の偉大なるチャンピオンとなるN.ピケもタイトル争いにこうして敗れているが、彼はまだ若かった。

 A.ジョーンズはウイリアムスを躍進させた立役者のひとりである。ウイリアムスの強豪としての歴史は彼から始まったのである。

 その後、彼は日本のレースにもやってきてシーズンを戦った経歴がある。

 個人的にはあこがれてきたきた強かったチームが新興勢力に敗れていくのは、悲しいものを感じていた。
 しかし、F−1の世界で弱者が強者になっていけることを教えてくれたのもこのチームだった。

 世界一を夢見るチームはウイリアムスが見せてくれた這い上がっていくストーリーを再現したいと思っているのだと思う。
 メーカの肝いりでないプライベートに近いチームが世界の強豪にのし上がっていくのを私に最初に見せてくれたウイリアムスとA.ジョーンズは、私の中の夢の縮図のひとつである。

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ちょっと独り言

 今、鈴鹿で20回目のF−1GPをやっています。
 私も結構見に行ったものですが、最近はちょっとご無沙汰してます。
 
 わからない人には永遠にわかることはないと思うあの魅力に取り付かれて長い年月を経てきました。
 来年F−1が富士に帰ってくる。
 私の原点であった富士で行われたF−1。少し血が疼くなあ。
posted by appiy at 11:20| Comment(0) | TrackBack(0) | F-1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月30日

J.シェクターの記憶

 さて、今回は79年のワールドチャンピオンのJ.シェクターです。
チャンピオンになったのはフェラーリでしたが、ウォルターウルフレーシングの時代の印象が強いです。

 このフェラーリ、M.シューマッハがチャンピオンになるまで、最後のワールドチャンピオンはこのJ.シェクターでした。
コンストラクターズタイトルは一度とっていますが。

 J.シェクターは南アフリカ出身のF−1ドライバーである。サッカーのW杯が次に開かれるあの南アフリカです。
 人種差別の問題などがあったが当時はF−1も開催されていました。

 79年のポイント制度が前半と後半で有効ポイント制になっていた。この年、ウイリアムスが弱小チームから強豪チームへと生まれ変わった。
しかし、開幕はリジエが制した。前半7戦中リジエが3勝、フェラーリは4勝という結果だった。

 後半の8戦はウイリアムのA.ジョーンズが4勝をあげて有効ポイントはベストだったが、フェラーリはさらに新型のマシンをつぎ込んでJ.シェクターをワールドチャンピオンにしたのである。
 前年度チャンピオンのロータスは1勝もあげられずにシーズンを終えた。

 勝てるマシンを求めてフェラーリからロータスに移籍したC.ロイテマンは、出てきたフェラーリからワールドチャンピオンが出たことは悲劇であったろう。

 さて、J.シェクターというドライバーはサイドウェイジョディと呼ばれるドリフトしてマシンを走らせるタイプのドライバーとして有名だった。
もう一人のサイドウェイロニーと異名をとったR.ピーターソンは昨年事故でこの世を去っていたので、サイドウェイ派の最後の大物がJ.シェクターだった。

 さて、このJ.シェクターであるが、ワールドチャンピオンになってしばらく後、一般道でスピード違反で捕まったのが一般紙の記事として小さく載っていた思い出がある。
スピード違反で捕まって新聞ネタになったのは彼と、セナぐらいだと思う。

 70年代を飾ったドライバー達は順番にチャンピオンになっていき、徐々に世代交代をしていくことになる。
 このときR.パトレーゼは若手だったぐらいです。

 レースで死んだ人間は最近こそ少ないが昔は多かった。
 しかしチャンピオンになった人間は殆どレースで死んでいない。

 唯一の例外はA.セナである。

 熱い男だったJ.シェクターは荒々しくマシンを走らせるイメージが私の中にはいつもある。


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ちょっと独り言

 レース好きな私ですが、まだ、そんなにレースの中身は書いていないですね。
 当時フジテレビはまだレースの中継などしていなくて、レースと言えばTBSでした。
 ダイジェストで放送されるF−1は私の楽しみの一つでした。

 
posted by appiy at 19:11| Comment(2) | TrackBack(0) | F-1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする